愛について

愛について。

これは数日前に私が恋人と議論したテーマである。

と言っても、「何を愛と定義するか?」というものではなく、人によって「これって愛だな」と思うものにギャップがかなりあるよね、という議論である。

 

私たちは、誰かにされたことや言われたことに対して「愛だな」と思うときがある。それが恋人でも、友達でも、何から受けたものでもいい。

でも、それが本当に愛かどうかはわからないな、と思う。

愛ってなんだろう。私が感じている愛って本当に愛かな。私が相手に伝えているものって本当に愛として受け取ってもらえているのかな。

そんなふうに考えたこと、ありませんか。

 

私はある。なんならよく考える。

例えば、私が恋人から「男の人がいる飲み会に絶対に行くな」と言われたとする(実際は一度も言われたことはないが)。

その場合、私はこれを「愛されてるな、私のことそんなに好きなんだな」と思う。嬉しく思う可能性すらある。

でも、同じことを私が彼に言ったとして、彼もそれを「愛だな」と受け取ってくれるかはわからない。もしかすると、束縛されているな、重い女だな、と感じられてしまうかもしれない。

その要求や出来事を愛であると捉えるかどうかは、その人の生きてきた環境や思考の癖によって決まる。

 

私はたぶん、人からの要求や、何かしらの出来事に「自分が必要とされているか」を考える癖がある。どれだけ歪んだ要求であろうと、「この人に私は必要とされているんだな」と思うと、それを「愛だな」と感じる。

でも、相手はそんなことを考えていないかもしれない。

多くの場合「あなたを必要としています」は「あなたへの愛があります」と同義ではない。

 

それでは、実際に相手から愛されているかどうかを判別するためには、どうしたらよいのか。

言葉を尽くされ、態度で示されたら、自然とわかるものなのだろうか。

そんなことを考えていると、いつも尾崎リノの「逃避行」という曲を思い出す。

その曲には、「これが愛だと答え合わせするための愛をまだ知らない」という歌詞がある。

「答え合わせするための愛」つまり、「正しい愛」のようなものは存在するのか。

もし存在するのであれば、それはどこで学べるのか。

優しくて温かな家族から学ぶものだとしたら。

 

私はいつまで経っても愛を正しく捉えられる自信がない。

 

 

 

※これは246日前の下書きに文章を書き足したものです。