野菜スープ

野菜スープに入れるもの。にんじん、ピーマン、セロリ、きゃべつ、たまねぎ。

それから、トマト。

野菜たちが浸かるくらいの水でことこと煮る。

煮えたらそこへ、コンソメ、塩、カレー粉を入れて、またぐつぐつと煮こむ。

野菜を煮込む時間は鍋だけに集中すればよいので、余計なことを考えずにすむ。

出来あがった野菜スープの中にいる、くったりとしたきゃべつと丸みをおびたにんじんが愛おしい。透き通った赤みのあるスープに、カレー粉の油分がほんの少し、ぽわん と浮いているのもなんとも良い。

野菜スープは、身体に良いものだけを集めて作っている、という感じがする。わたしから私へのやさしさのようなものがある。そんな気がする。

そんな気がする野菜スープに、あえてあらびきこしょうなんかを入れてみるのも、また良い。

わたしから私へのやさしさを、私が無駄にする瞬間はなんとなく気持ちがいい。

幸せな夢を見る方法

夜中の二時半。今日はとっても寒かった。都内ではどうやら雪が降ったらしい。

今日は幸せな夢を見る方法について書こうと思う。

 

これを読んでいるあなたは、どんな夢を見たことがあるだろうか。どんな夢を見やすい傾向にあるだろうか。

私が見る夢は、もっぱら悪夢。

悪夢の中でも「追いつめられる夢」がそのほとんどを占めており、「精神的に追い詰められる夢」も「肉体的に追い詰められる夢」もどちらも見る。

前者は先生に怒られる夢、バイト先の塾長に怒られる夢、何か大きな失敗をして取り返しがつかなくなる夢、恋人に目の前で浮気をされる夢……。後者は、銃を持った人間から逃げる夢、大きな蛇に追いかけられる夢、男の人に腕を掴まれて逃げられない夢。とにかく、色々な種類の悪夢を見まくる。

見る夢のほとんどが悪夢なので、眠るのがだんだんとつらくなる。上手に眠れなくなってしまう。

 

そこで、私はここ数年間、「悪夢をできるだけ見ないように眠る方法」について模索した。どうせ見るのなら「夢ならでは」と思えるようなわけのわからない夢か、友人や親しい人と幸せな生活をしているような夢がいい。

 

まず、私はなぜ悪夢ばかり見るのか?

答えは簡単で、普段から物事をネガティヴな方向に捉え、考えがちだから。

それなら、寝る前に現実から逃避するか、幸せなことを想像してから寝たら良いのでは!?ということで、解決策を3つ考えました。

 

①読書をしてから眠る

これは、現実から逃避することで、リアリティのない不思議な夢を見られるのではないか?と期待して思い浮かんだ解決策。結果は失敗。なぜなら私が読む小説は人間関係ドログチャ系が多すぎるのと、恋愛関係の本や現代短歌を読むともれなく恋愛関係の悪夢を見てしまうから。ちなみに小説内で起こっている人間関係ドログチャだけを綺麗に夢の中に持ち込み、親しい人とドログチャになる夢も見たことがある。最悪。

 

②友達や恋人など、親しい人のことを考えながら眠る

これは、幸せなことを想像してから寝たら、幸せな夢が見られるのでは?と期待した改善策。結果は失敗。親しい友人が死ぬ夢、恋人が目の前で浮気をする夢ばかり見る。親しい友人が恋人と目の前で浮気をする、というなんとも生々しい夢も見たことがある。最悪。

 

③見たい夢の内容を書いた紙を枕の下に入れて眠る

これも、②と同様に幸せなことを想像してから寝たら幸せな夢が見られるのではないか?と思い、やってみたもの。「美味しいシュークリームを食べる夢」とか書いて枕の下に入れて寝てみた。結果は失敗。シュークリームがきっかけで誰かに怒られる、という謎の夢だけを見た。精神的に追い詰められている。最悪。

 

そんなわけで、私が思いついた解決策3つはすべて失敗に終わっている。

……なんかこれ、まとめサイトみたいな終わり方になっちゃうな。「試してみましたが、答えは見つかりませんでした!わかり次第追記しますね!☆」みたいな。良くない。

幸せな夢を見られたら、寝るのがもっと幸福で、温かくて、良いものになる、と私はずっと信じている。自覚している限り、中学生の時から悪夢ばかり見る。そろそろ解放されたい。

幸せな夢を見る方法、ご存じの方がいらっしゃいましたら教えてください。

 

みんなはいい夢見てね。

愛について

愛について。

これは数日前に私が恋人と議論したテーマである。

と言っても、「何を愛と定義するか?」というものではなく、人によって「これって愛だな」と思うものにギャップがかなりあるよね、という議論である。

 

私たちは、誰かにされたことや言われたことに対して「愛だな」と思うときがある。それが恋人でも、友達でも、何から受けたものでもいい。

でも、それが本当に愛かどうかはわからないな、と思う。

愛ってなんだろう。私が感じている愛って本当に愛かな。私が相手に伝えているものって本当に愛として受け取ってもらえているのかな。

そんなふうに考えたこと、ありませんか。

 

私はある。なんならよく考える。

例えば、私が恋人から「男の人がいる飲み会に絶対に行くな」と言われたとする(実際は一度も言われたことはないが)。

その場合、私はこれを「愛されてるな、私のことそんなに好きなんだな」と思う。嬉しく思う可能性すらある。

でも、同じことを私が彼に言ったとして、彼もそれを「愛だな」と受け取ってくれるかはわからない。もしかすると、束縛されているな、重い女だな、と感じられてしまうかもしれない。

その要求や出来事を愛であると捉えるかどうかは、その人の生きてきた環境や思考の癖によって決まる。

 

私はたぶん、人からの要求や、何かしらの出来事に「自分が必要とされているか」を考える癖がある。どれだけ歪んだ要求であろうと、「この人に私は必要とされているんだな」と思うと、それを「愛だな」と感じる。

でも、相手はそんなことを考えていないかもしれない。

多くの場合「あなたを必要としています」は「あなたへの愛があります」と同義ではない。

 

それでは、実際に相手から愛されているかどうかを判別するためには、どうしたらよいのか。

言葉を尽くされ、態度で示されたら、自然とわかるものなのだろうか。

そんなことを考えていると、いつも尾崎リノの「逃避行」という曲を思い出す。

その曲には、「これが愛だと答え合わせするための愛をまだ知らない」という歌詞がある。

「答え合わせするための愛」つまり、「正しい愛」のようなものは存在するのか。

もし存在するのであれば、それはどこで学べるのか。

優しくて温かな家族から学ぶものだとしたら。

 

私はいつまで経っても愛を正しく捉えられる自信がない。

 

 

 

※これは246日前の下書きに文章を書き足したものです。

 

うたとひとりごと

さっき机の脚に思いっきり小指をぶつけた。めがねを取りに行こうと思って動き出した矢先の出来事だった。めがねもコンタクトレンズもつけていなかったので、遠目で小指を確認して血豆ができているんだと思った。あとからよく見たら皮がめくれて血が流れていた。痛い。家にたくさん絆創膏があってよかった、過去の私に感謝。最近はすぐに昼夜逆転してしまってだめですね。ちゃんと昼間に活動しなきゃ、という気持ちだけはあります。

昨日はうまく眠れずに久しぶりにHalo at 四畳半のヒューズを聴いた。そういえば最近の曲聴いていないな、と思って検索してみたら最新曲は2021年にリリースしたものだった。調べてみたら「活動休止」と銘打って事実上の解散をしていた。悲しい気持ちになった。私は比較的冷たくて詩的な曲を好きになりやすい傾向にある気がする。mol-74のFrozen timeとか、SleepInsideのMedical Careとか、尾崎リノの逃避行とか。最近新しいアーティストの発掘が出来ていないなあ。

音楽があまり聴けていなくても、バイトや研究で忙しくても、なにかを創作したい、鑑賞したい、という気持ちは常にある。もともと小説や詩集を読むこと、水族館や美術館へ行くこと、映画を見ることが、好きだ。去年は馬鹿みたいに本を読み水族館に行っていた。何かに没入することが好きなのである。「そのことで頭がいっぱいになる」ならなんでもいい。野菜スープを野菜がくたくたになるまで煮込み続けるとか、そういうのでもいい。あ、もしかして私が生物系の実験や研究が好きなのってこれが理由なのかも。それをしている時間は余計なことを考えられないっていう時間が良い。

ただ、いつも水族館に行くわけにはいかなくて、小説を読む心の余裕さえなくて。そんなときにわたしが何をしているか。最近は短歌を詠んでいます。

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はじめは自分のこころの中でうまく消化できないこと、きれいな記憶を言葉として残したいなと思って詠み始めたのだけれど、結構楽しくてちょこちょこ投稿している。もちろんすべてがノンフィクションというわけではなく、フィクションもたくさん含まれている。恋愛のうたが多いのは、恋愛と人間関係について私が思うところがたくさんあるから。お気に入りのうたは「人間は嫌いだ と言うその口が 手料理食べて 美味い、とゆるむ」と「嫌いなあの子を裏垢でブロック ちいさなわたし ちいさな威嚇」。

この前はじめて家庭教師のお仕事をした。行った先のご家庭で「先生は趣味とかあります?」と生徒さんのお母さんに聞かれた。趣味、趣味、趣味、、、、、、考えて、出てきたのは「水族館に行くことと、写真を撮ることが好きです」だった。

昔からずっと思っていることなんだけど、趣味を答えるのって難しくない?趣味もそうだし、私は自分の好きなものを答えるのも難しく感じられてしまう。他者に「これが好きです」って言えるほどそれが好きなのか自信が持てない。好きって表明しても許されるのはどこからなのか基準があったらいいのに、とよく思う。別に私がなにを好きと言おうと誰かに許されないなんてことないはずなのに、何を杞憂しているんだろうね、わたしにもよくわかんない。

好きなこと、純喫茶やモンブランの美味しいお店をめぐること、水族館にいくこと、読書、音楽を聴くこと、料理、文字を書くこと、ひととおはなしをすること、ウミガメのスープ、映画鑑賞。全部ちゃんとわたしのすきなこと、として表明できるようになりたいね。だって好きなはずなので。きちんと趣味って言えるもののはずだからね。

自分と自分の好きなものをきちんと大切にできるようになったら、自分も誰かから大切にしてもらえるんだろうか。それとも、誰かから大切に扱われた経験が豊富な人間が自己と大切なものをきちんと大切にできるんだろうか。永遠の謎。ちなみに私はなんとなく後者だと思う。

 

今日の目標、洗濯/片付け/自己分析をする。

美味しいプリンの話

レポートに追われている。今まさに、今日の24時が提出締め切りのレポートに追われている。でも全然かけないので、代わりに最近の日記でも書こうかな、と思う。昔好きだった人も、書くことで気持ちが整理されると言っていたし。

最近の私はびっくりするほど何もできていなくて、研究も、生活も、バイトも、全部中途半端。毎日4時くらいに寝て、起きるのが12時。研究室にも行けない。だめ人間。バイトもロクにしていない。してるけど。ずっと自分の存在価値について考えては死にたくなっている。

今日は家から出ようと思っていたのに目的の時間に出られず、やっと家を出られたのは20時だった。その間何をしていたかというと、洗濯をしていた。同じ洗濯物を3回も洗った。なぜ?わからない。なんか汚いと思った。匂いがいつもと違う気がして、洗剤と柔軟剤をいつもの3倍量入れた。食物の匂いも味も、空気の匂いもわかるのでコロナではない。本当はあと5回くらい洗いたかったけれど、水道代がかさむと思ってやめた。レポートについては書く内容はある程度決まっているにもかかわらず、書き始められない。自分の紡ぐ言葉が全部ゆるせない。昨日塾講師のバイトで報告書を書いた時、文章も文字も全部気持ち悪くて、何回も書き直した。自分の文字を自分が汚いと感じるとき、精神的に不安定であることはなんとなくわかっている。わかってはいても対処法はわからない。どうしたらいい?誰か知っていたら教えてください。

昨日バイト帰りに吉祥寺に寄った。美味しい定食を食べたいと思って目的のお店に行ったら並んでいた。チキン南蛮定食を頼もうと思っていたのに。それならば焼き鳥でも食べてお酒を飲もうかなと思った。ハツが好きだ。食べたい。行った先の鳥貴族も満席だった。諦めて、治安の悪い通りを歩いていたらお気に入りの喫茶店の営業時間が伸びていることに気づき、入ることができた。よかった、私はここに入れなかったら井の頭公園で動かない白鳥たちと水面を見ながら死にたいと思い続けるところだった。

茶店では4人がけの席に通された。わたしはひとりなのに。そのあと来たお客さんたちはみんな「満席です」と言って入店を断られていた。ひとりなのに4人がけの席に座ってごめんなさい。わたしだってひとりで来たかったわけではないんです、本当はひとりで行動するのはとても苦手だし。お店では黄色のクリームソーダとプリンを頼んだ。ここのプリンは今まで食べたどのプリンよりも、美味しい。甘くて、ホイップとさくらんぼが付け合わせでついていて、カラメルの苦みもほどよい。かためのむっちりとした、クリームチーズの風味がする、濃厚なプリン。私が執着しているプリンの君もきっと気に入ってくれるだろう。また話すことが出来たなら紹介するのに。

気が滅入っていてもプリンを食べる時間だけは幸せなものだった。どんな思考も巡らせる隙を与えられないほどの至福のひと時。どうしてもひとりでいるのがつらくなって、電車で20分くらいの場所に住んでいる知り合いを呼んだ。来てくれると言った数分後に人身事故で中央線が止まって来られなくなった。結局一人なのだと思った。彼が来るまで残しておこうと思ったプリンは時間がたっても美味しかったし、アイスのどろどろに溶けたクリームソーダだって美味しかったけれど。なんだかさみしかった。

自分が必要とされている気がしない。誰がどう言葉を尽くしてくれても自分の代わりはいくらでもいるような気がしてしまう。やっぱりぬるま湯に浸かりすぎなのかもしれない。実家にいたときは、死にたいと思うことがいまよりも少なかった。決して実家が良い環境だったという話ではない。父親から歪んだ愛情を注がれ、性的虐待を受けていた。父が私を贔屓するせいで姉から疎まれていた。母親から嫌われていた。もう一生実家に帰りたいとは思えない。でも、実家には私が存在する必要性があった。毎日父と母の扉を閉める音の強弱を聞きわけた。怒鳴り声が聞こえたらすぐに喧嘩の仲裁に入った。父がお酒を飲んでいる日は母を遠ざけた。毎日他人のご機嫌取りをして、ノイズキャンセリングのイヤホンは一生つけられないと思った。母親の足音が聞えなくなるのは困るから。

自由になってから今までずっと何のために生きればいいのかわからないままだ。自分のために生きなよ、って言ってくる人はなにもわかっていない。自分のために生きるって難しいよ。誰かのために生きたい。サンドバッグでもいい。ヒモ男に寄生されてもいい。ひとりで自分のためだけに生きるのは難しいし、つらい。怒鳴り声や大きな足音に怯えなくなっても空虚な自分に希死念慮が募る。

茶店ノイズキャンセリング機能搭載のイヤホンを付けてクリームソーダを飲み、美味しいプリンを食べている私が死にたいと思うのは贅沢なのかな。贅沢なんだろうね。

ちゃんと昼に活動して夜に寝たい。毎晩お金のことを考えてつらい気持ちになりたくない。感情のリセットのために自傷してしまうのをやめたい。過食も拒食もやめたい。価値のある人間になりたい。料理をしたい。きれいな文字を書けるようになりたい。賢い人間になりたい。読書をする心の余裕がほしい。

以前付き合っていた人が、私が泣くと自信を無くすと言ったので、人前でうまく泣けなくなってしまった。泣けるけど、泣いた後のやってしまった感が強くてしんどい。また別の以前付き合っていた人は、自分の自己肯定感の低さを家庭環境のせいにするなと言ってきた。それから自分の精神的な不安定さは自分のせいだと思うようになった。付き合っていた人はみんな浮気かモラハラをする。恋愛向いてないのかもしれない。知らんけど。結局みんなわたしのことを必要とはしていないのだと思う、彼らはわたしとは違って自分のために人生を歩める人だからね。

とてつもなく雑な文章を1時間も書いてしまった。私って1時間あれば2500文字も紡げるんだな、レポートなんて余裕なのでは?これから2時間でたくさん文字を書こう。睡眠は諦める。ほんとうは毎日何もしたくない。したいと思ったこともできない。これが鬱ってやつ?夏は好きなはずなんだけどね。おかしいな。とにかく何もないのになぜか涙が出てくるときの対処法を知りたいです。

 

今月の目標、コンロを買うこと、水族館の年パスを買うこと。

今日の目標、レポートを提出すること。

 

また、つぎの

 

今年の夏は、いつもより暑い。

梅雨が明けたと思えば、いきなり強すぎる日差しが詰め寄ってきている。

 

苦しい。

 

そんな気がする。

 

 

今年も夏休みが始まったわけだが、夏休みが始まって数日、夜3時よりも前に寝た日は片手で数えても指が余るほどしかない。

 

みなさんには、眠れない夜を過ごした経験はあるだろうか。

 

私にはある。

幼いころからずっと、長期休みになるとなかなか寝付けなくなってしまうのだ。

 

これは「活動していなくて疲れていないから」という理由によるものだけではなく、その「あまり疲れていない肉体と脳」があるおかげで いろいろなことを考えられてしまうせいであることが多い。

 

脳が起きているとき。眠れないとき。

いつも、負の感情に包まれてしまう。

 

例えば、自分が過去にしてしまった失敗を何度も何度も思い返しては反省をしたり、人に言われた悪口を脳内で反芻させては悲しい気持ちになったりする。

 

いつもなら、疲れのせいでそんなことを考える暇もなく脳を強制的にシャットダウンできているのに、それができなくなる。

頭の中でずっと 嫌なことをぐるぐるぐるぐる走り回らせては、泣きそうになる。

 

 

気づけば、朝4時になっている。

 

 

 

 

昔、中学生のときに、夜遅くにだけ私と会っておはなしを聞いてくれる人がいた。

 

深夜1時にならないと彼には会えない。朝方6時ごろになると消えてしまう。

不思議なひとだった。

 

 

 

彼はいつも勉強の片手間にわたしとおはなしをしてくれた。

 

 

当時14歳の私は、クラスの女の子との人間関係に悩み、疲弊し、毎日そのことを考えては眠れない夜を過ごしていた。

 

 

ある夏の夜、いつものように勉強をする彼を眺めながら、

ふと「最近、うまく眠れないの。」とおはなしをしたことがある。

 

「どうして、眠れないの?」と彼は言う。

 

「あのね、友達にね、嫌なことを言われて……そのことをずっと考えちゃうの」

 

そう言う私に、彼はやわらかな笑顔を向ける。

 

「じゃあさ、キミにだけ特別に、【嫌な人や嫌なことへの対処法】を教えてあげる」

 

「【嫌な人や嫌なことへの対処法】……?」

 

「そう。10個あるんだ。よく聞いて。

まず、1つめ。嫌な人のことを考えている時間を無駄なものだと思う。

せっかく自分の脳が色々なことを考えられる状態にあるんだよ、もっと幸せなことを考えた方がいいと思わない?」

 

なるほど、と思った次の瞬間には口から

「確かに……。」と声が漏れていた。

「でもさ、どうしても忘れられないことってあるよね?そういうときはどうするの」

 

そう問う私に、彼は優しく微笑む。

まるで私を諭すかのように。

 

「そしたら、2つめを使うんだ。2つめはね、嫌な人や嫌な出来事に感謝すること。

その嫌な人に対して『あなたのおかげで、友達のありがたみがわかったよ!ありがとう!』って日々感謝する。そうすると、不思議と嫌な気持ちが消えていくよ。」

 

「オレもクラスにひとり気が合わないヤツがいてさあ、でも隣の席だから、忘れるわけにもいかない。だから、毎日そいつに感謝してるよ。」

 

 

 

私は、こんなに優しい人にも『嫌な人』がいて、それとうまく付き合っているんだ、という事実に驚いた。

 

ぽかんと口を開けているだけの私。

何も言えずにいる私の頭を、そっと彼の手が撫でた。

 

 

 

「だいじょうぶだよ」

 

 

 

この言葉に、救われた。

 

こころのなかが、温かくて、ふわふわとしたもので満たされていく気がした。

 

 

だんだんと眠くなってきて、まどろみの中にいる私に彼は

 

「おやすみ。

また、つぎの眠れない夜に 残りを話してあげる。」

 

そう言った気がする。

 

 

 

 

それから7年経った今でも、眠れない夜になるとこの日のことを思いだす。

 

ねえ、21歳になった私には、14歳のときとは比べものにならないほど多くの過去や失敗があるよ。

 

 

もうひとりで何度も何度も 眠れない夜 を過ごしてきたけれど、

そろそろ 残りを聞かせてもらえませんか

 

911

 

今朝、味噌汁を飲みながら昔のことを思い出していた。

 

 

昔、とうの昔に好きだった彼は賢く聡明な文学少年で、私よりも英語が出来て、ユーモアのある人間だった。好きなものはプリンとBUMP OF CHICKEN。嫌いなものはグリンピース。

 

 

彼と初めて出会ったのは2011年9月11日。

 

 

私と彼はよく会話をする仲だった。3日に1度くらいの頻度で学校の出来事を話したり、人間関係の悩みを打ち明けたり、くだらない茶番をしたりした。

 

どんな話をしても私とまっすぐに向き合ってくれる彼に甘えていた。

 

 

今思えば、これが私の初恋だったのかもしれない。

 

明るい月を見ては「月が見える?僕らは今同じ月を見ているんだよ」と言う。

曇りの日には「月もキミの美しさに恥じ入って隠れているんだね」と言う。

 

 

告白するときには「僕のプリン、半分あげるよ」と言うらしい。

 

実際に言われたことはないが。

 

 

BUMP OF CHICKENの『車輪の唄』の中で『約束だよ 必ず いつの日かまた会おう』という歌詞の後に『応えられず 俯いたまま 僕は手を振ったよ』という歌詞が続くんだけど、これってどうしてだと思う?」

そんなことを突然言っては、「じゃあ数日後にまた聞くから考えておいてね」と去っていくような男だった。

 

いきなり「キミのいないところなんて苺のないショートケーキのようなものだ」なんて言われたこともあった。

 

彼と私の家庭環境は似ていて、家族の話をしては共感しあい、いつの日か訪れるかもしれない幸せな生活を夢見た。

 

 

 

当時中学生だった私の、幼くて柔い心を支えてくれたのが彼だった。

 

 

 

彼はたくさんの知らないことを教えてくれた。頑張りすぎなくてもいいこと、嫌なことがあったときの対処法、プリンの作り方。

 

もらったものがたくさんあった。

 

 

 

 

でも、「好き」のひとことはもらえなかった。

「好きと言えば言うほど気持ちが軽くなっていくような気がして嫌なんだ。」とは言われたけれど。

 

 

年が経つにつれて彼と話す機会は減り、年に一度、お正月だけ ある場所で待ち合わせて話すことができた。それだけで十分だった。が、それもいつしかなくなってしまった。

 

最後に話したのは私が高校2年生のときで、大学進学についておはなししたと思う。それを皮切りに彼は待ち合わせ場所に姿を見せなくなってしまった。

 

 

 

私は今もお正月になると待ち合わせ場所に行ってしまう。会えないとわかっているのに、本当は待ち合わせなんかじゃないのに。私が勝手に待っていたところにたまたま彼が居合わせた、それが数年続いた、ただそれだけなのに。

 

 

彼のことはなんでも知っているような気でいた。でも私は何も知らなかった。電話番号も、LINEも。

会えなくなって初めて連絡先を交換していなかったことを悔いた。

 

連絡先だけじゃない。

本名も、顔も、なにもしらない。

 

本当に私は何も知らないのだ。

 

 

 

 

 

私と彼は顔を合わせたことがなく、「ネットの中だけ」で関係を持っていた。だから、ここに書いていることのどれが本当でどれが嘘だったのかは私にはわからない。

半分くらいが、曖昧な記憶と強すぎる執着が作り出した虚構なのかもしれない。

 

 

 

 

 

毎年9月11日になると、彼のことを思い出してはプリンを食べたくなってしまう。

 

記憶の片隅に残る 顔も名前も知らない「彼」の影を思いながら、私は生きている。